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一人暮らしであっても・・・

ちょうど1年ぶりに「お知らせ」を更新いたします。
当院のような在宅療養支援診療所には、在宅でお看取りした方の人数を毎年7月に行政へ報告する義務があります。その報告内容をここに記載いたします。

この1年間に私が関わりをもった方のうち26名(前年24名)の方がお亡くなりになりました。そのうち自宅で最期まで過ごされた方が22名(前年18名)、自宅で介護できなくなり施設に入所、そこで亡くなられた方が1名(前年2名)、病院に入院となりそのままお看取りとなった方が3名(前年4名)でした。関わりを持った方のうち、85%(前年83%)の方と最期までおつきあいしたことになります。ほぼ前年と変わらない数値です。ちょうど1年前にここに投稿したことですが、 最期まで家で過ごさなければならないではなく、いつでも施設や病院に入所/入院できる準備を整えつつ、希望がある限り家で最期まで暮らせるように支えていくこと。そうすれば、最期まで自宅で過ごしたいと思い、それが実現できる方は85%前後になるのだと思います。

今、一人暮らしの方がどんどん増えています。そのような中で、この数値がどのように変化していくか、それは「病気になる前」を含めた支援の仕方次第だと考えます。一人暮らしでも最期まで自宅で過ごせる地域。そんな地域に少しでも近づくために、 この1年間も様々な所でできる限り断ることなく講演を行ってきました。これも病気になる前の大切な支援の一つだと考えてのことです。

在宅療養の結果としてのお看取り

この1年間で関わりをもった方のうち、24人の方がお亡くなりになりました。自宅で最期まで過ごされた方が18人、自宅で介護できなくなり施設に入所、そこで私がお看取りした方が2人、病院に入院となり病院でお看取りとなった方が4人でした。

関わりを持った方のうち、83%の方と最期までおつきあいしたことになります(ご自宅で最期まで過ごされた方は75%)。訪問診療を開始する前に、私はご本人、ご家族と面談という場を持ちますが、その時から「最期まで家で過ごす。」と心に決めている方はとても少ないです。「できることならば最期まで家で過ごしたい。」と思っている方はおられますが、多くの皆さんが不安を抱えた状態で面談に来られます。家族に負担がかからないだろうか・・・・、私に介護ができるだろうか・・・・、病気が急に変化したらどうするのだろうか・・・・等。そういった不安をできる限り取り除くために、90分以上の時間をかけて話し合いの場(面談)を持ちますが、やはり始めてみなければわからないというのが皆さんの正直な気持ちだと思います。
でも多くの場合、医師、看護師、ケアマネージャー、介護士等々でチームを作り、訪問を1週、2週・・・と重ねていくと、不安な気持ちが「こんな感じで皆が来てくれるならば家にいるよ。」という気持ちに変わっていきます。それが結果として最期まで自宅で過ごすということにつながり、最初に記した数値となっています。
「最期まで家で過ごさなければならない。」ではなく、「必要があれば施設入所や病院に入院もできるし、希望があれば家で最期まで過ごすこともできる。」ということ。私の仕事の目的は、看取ることではなく、日々の生活を支えるということ。それが結果として、自宅での看取りにつながっています。
やはり大事なことは、今を生きるということ、そしてその場所は人それぞれであり、私は家で過ごしたいという人を支えているということなのだと思っています。

講演

26年11月28日 駒木野病院の院内勉強会にて「生きること、そして看取りを支える」
27年1月25日  のもとよしみさん議員報告会にて「地域でこれから考えていきたいこと」
27年2月12日  杜のホールはしもとにて「私たちが自宅で暮らしたいという町を」
27年5月19日  上野原市居宅介護支援事業所・高齢者支援センター交流会にて 「安心して在宅で過ごせるように私たちは何をすべきだろうか?」
という題で講演を行いました。
27年6月21日には名倉地区自治会館にて「人生の最期を楽しく考える」
27年6月25日には上野原市多職種連携の会にて「在宅緩和ケアの心」
という題で話します。
前回も書きましたが、徐々に在宅で過ごすという選択肢が広がりつつあるように感じます。
「しかたがないから在宅で過ごす・・・」ではなく、「この町だからこそ在宅で過ごしたい」と思える地域に、少しずつではあるけれども近づいているように感じます。

本来の医療

医療とは、医師や看護師、その他様々な職種の医療者が協働して、病気を持っている本人、家族と、信頼関係を構築しながら作り上げていくものだと考えます

本人を含めた家族にとって何が望ましい姿なのか、どのような医療の関わりがその姿に近づけるのか、一緒に話し合い、作り上げていくものです

当然ですが一方的に医療者が提供するものではありません

 多くの場合、本人、家族、それぞれの立場によって望ましい姿の希望は異なります

本人が幸せになって欲しいという願いは共通でも、本人、配偶者、長男、長女、孫・・・・それぞれが生きてきた立場、時代で希望の形は異なります

その様な中で、皆が納得できる姿を探し、そこに近づけていく作業

その作業は、治らない病気、治せない病状になった場合において、より大切なものとなってきます

治る病気であれば、当然「治す」という所で意見が一致しますが、治らない病状となった場合には、例えば・・・胃瘻を作るべきか否か、化学療法をするべきか否か、在宅療養を続けるべきか否か等々・・・意見の相違がでてきます

その様な中で丁寧に人間関係を作り、話し合いを重ねていく作業

信頼関係を構築しながら、早急に答えを求めず結論を作り上げていく作業

そして最後にみんながこれでよかったと思えるように作り上げていく作業

何を大事に過ごされてきたのか、今大切にされていることは何なのか、これから先はどのように過ごしたいと考えているのか、そんなことを話し合いながらより適切な形で医療を提供していく 

病気は治せなくても人を幸せにする医療ってこういうことなのかなと思います

これが私が行っている在宅緩和ケアという仕事の一部分です

 

講演

26年5月11日 のもとよしみさんの議会報告会にて在宅緩和ケアの心という題でお話しをしました    26年5月19日 森田病院院内勉強会にて在宅医療のお話をしました
26年6月20日 居宅介護支援事業所・高齢者支援センター交流会にて 緩和ケアとグリーフケアという題でお話しをしました

徐々に緩和ケアという考え方が広がってきている様に感じます

「枯れること」と「緩和ケア」

家の裏で小さな畑をしています。今、夏草たちが枯れ、草木が土に還っていく姿がみられます。そして土の中では春を待つ種や宿根が眠っています。
収穫してもすぐに刈り取らずに種が取れるまで待つ、枯れるまで見守る。そうすると、草木がとても穏やかに過ごしているように感じられます。

最期を迎えるとき、草木が枯れるようにゆっくりとした経過をたどる方がいます。
老衰ではないけれど、老衰のように穏やかに亡くなる方がいます。
そんな方の多くに共通することは、ある時点から必要以上の人工的な医療が介入していません。
冬になると草木は自然に根から水分を吸い上げなくなり、葉での光合成や呼吸を減らしていきます。そして徐々に体を軽くしていきます。
人もまた、同じです。

もちろん最期のときまで、つらい症状は取り除き、最期まで、生活を支える、生を支える医療は介入します。それは緩和ケアです。
医療の目的は「人を幸せにすること」で「病気を治すこと」だけではないのだろうと思います。もちろん病気が治ることで幸せになれる場合は、それが医療の目的です。
でも「病気を治すこと」だけが医療の目的であれば、治らない病気にかかった場合、医療はどうすることもできなくなってしまいます。
人を幸せにすることが医療の目的であれば、治らない病気であっても、死に直面しても医療は力になることができます。
それは緩和ケアです。

畑をしながら、人も草木も本質は同じなのだと感じます。
緩和ケアの心を草木に感じる冬です。

(トランジション藤野 かわら版 第23号 2012.1.18発行に掲載したものを一部改変)

講演

事後報告ですが・・・

11月13日(木)19:35~20:05

桑都地域連携の会にて

「在宅緩和ケアの現状」

という題で講演を行いました。

11月16日(土) 18:30~19:30

三多摩緩和ケア研究会にて

「在宅緩和ケア ~一人診療所の実際~」

という題で講演を行いました。

健康とは

週刊誌の売り上げやTVの視聴率を伸ばす簡単な方法の一つは、健康情報を取り上げることだそうで、今、世の中には健康という情報が溢れかえっています。それは多くの人が健康でありたいと願っている事の現れだと思いますが、そもそも「健康」っていったいなんなのでしょうか。

私は、病院に通うことが難しいけれども自宅で過ごしたいという方の所へ往診している医師です。癌のため余命の限られている方、病気や高齢で寝たきりの方などとお付き合いしていますが、そういう方たちが不健康かと言えば、そんなことはありません。その理由の一つはその方たちを取り巻く環境が「健康」だからかもしれません。

私たちが暮らす地域が「健康」であること、これはとても大事なことであり、地域という社会をみつめる視点も忘れていはいけないことと考えています。

緩和ケアの誤解 その1

藤野在宅緩和ケアクリニックは在宅緩和ケアを中心に据えた診療所です。

全ての人の人生は限りあるものですが、そんな限りある時間をたとえ病気があったとしても穏やかに過ごせるように支える診療所です。

その「緩和ケア」という言葉に「末期になってから受ける医療」という大きな誤解があります。残念なことに、医療者にもこの誤解があるために、「まだ緩和ケアは早いよ」という言葉で紹介の時期が遅くなってしまうことがよくあります。

確かに、人生「最期」の時を不安なく上手に過ごせるように体とこころを支えていくという事は緩和ケアの大切な柱であり専門としている分野です。でも、もう一つ大事な役割が緩和ケアにはあります。それは、「今」という時、実際に家族や友人と生活をしているこの「今」というその時々を、穏やかに過ごせるように支えていくという役割です。理想を言えば、生命を脅かす疾患と付き合うことが判明した時から緩和ケアの関与が始まります。

緩和ケアが関与する時期が早くなることで、化学療法などを行っている担当医と連携をとりながら緩和ケアも早い時期から関与することで、上手に過ごせる時間は長くなるのだろうと考えます。

最後にWHO(2002年)の緩和ケアの定義を示します。

生命を脅かす疾患1)による問題に直面している患者とその家族2)に対して、疾患の早期より3)、痛み、身体的問題、心理社会的問題、スピリチュアルな問題4)に関して評価を行い、それが障害とならないように予防したり対処したりすることでQOLを改善するためのアプローチである。」

注1):癌だけではなく、肺炎や心疾患、老衰なども対象ということ

注2):患者だけでなく、家族のつらさも取り除くように支援するということ

注3):末期になってからのケアではないということ

注4):体のつらさだけでなく、心のつらさも一緒に考えていくということ