がんという言葉

がんという言葉は「社会のがん」という用い方をされることがあるように、負のイメージとして使われることが多い言葉です。新明解国語辞典によれば、「そのものの内部に有って、容易に取り除くことの出来ない障害、欠点の意にも用いられる」とあります。

今は二人に一人が何らかのがんになる時代です。
確率でいえば夫婦のうちどちらかが、生涯のうちでがんになります。
つまりがんは決して珍しい存在ではなくなっています。

辞典にも記載されているように、がんに対して否定的なイメージを持つことは当然のことではあるけれども、すべての事には裏表があり、がんにもきっと表の部分はあるのだと思います。
例えば、「がんに罹患したことで家族と濃密な時間を持つことができた」と話された方がいました。「世界は光にあふれている、すべてのものがまぶしく見えた」と書き記された方がいました。
がんの表(陽)の部分を見つけることは簡単なことではありません。無理にこじつけ、自身を納得させる大きな努力がいることなのだろうと思います。
でもがんの表の部分にほんの少し目を向けることができれば、楽になることもあるのでしょう。

私自身ががんとなった時に陽の部分を見つけることができるのか正直わかりません。
陰の部分だけを見つめて過ごし続けるのかもしれません。
でもそれも、誰からも否定されるべきではない一つの生き方なのだろうと思います。

今は、関わりを持ったがん患者さんがほんのちょっとだけ陽の部分を見つけることができるようなお手伝いができればと思います。

畏怖の心

世の中には自分ではどうしようもないことが多々あります。ブッダが四苦と話された「生老病死」も、基本的には自分ではどうしようもないことなのだろうと感じます。アンチエイジングという言葉がありますが、老いや死に抗うことができないことは異論のない所だと思います。そして病についても同じように感じることがあります。
当然、治すことができる病はたくさんありますが、医療の関与よりもその人自身の治癒力が主体となっていることが多いことも事実です(もちろん救急疾患や急性期の病態では西洋医学が果たす役割は非常に大きく医療を否定するものではありませんので誤解されないでください。)。
話が逸れましたが、治せる病であればその努力を行っていくことはとても大切なことでしょう。でも治せない病であればどのように医療と付き合っていくか、徐々にその視点を変えていく必要があるのかもしれません。この、人間の力で変えられる事と変えられない事をどのように見極めていくか、その境は白黒きれいに分けられるわけではないので常に悩む問題です。
例えばがんを担っている方が化学療法(抗がん剤治療)をいつまで続けるかという問題があります。製薬会社の努力によって数多くの抗がん剤が開発され、ある抗がん剤の効果がなくなっても次の抗がん剤が用意されている時代となりました。抗がん剤という言葉は「がんに抗(あらが)う薬」と書きますが、小児がん、血液がんの一部を除きその効果は限定されたものです。どこまで抗がん剤を続ければ利益が大きいのか。どこで抗がん剤をやめた方がよいのか。
医師は画像所見や血液データにその判断基準の多くを求めます。そのため実際には生活が十分に送れなくなっているにも関わらず化学療法(抗がん剤治療)が続けられている場合もあります。
人の力ではどうすることもできないことがあることを受け止めつつ、データに左右されすぎずに実際の生活実感を大切に自らが判断していくことも必要なのかもしれません。
その判断のためには畏怖の心が求められているのかもしれません。

診療所開設にあたり

3月に診療所を開設して1か月がたちました。
土地の購入から始まり、建物の設計、建築、看板作製、診療所のちらしや名刺づくり、ホームページ作成、そのための写真撮影、電子カルテ導入などなど、皆地域の友人や知り合いの方々に協力をお願いしました。そして近隣の方を含め、たくさんの人に助けられて、この診療所を始めることができました。
私のフィールドは在宅です。暮らしを支える医療です。癌に限らずどのような病気であっても年齢や病状から通院が難しいという方や在宅でゆっくりと過ごそうと決めた方など、家で過ごしたい、家での生活を続けたいという方を、相談をしながら様々な職種の方たちと連携をとりつつ支えていきたいと思っています。
それが、私が地域に還元できることなのだろうと考えています。